独占インタビュー「ラノベの素」 枯野瑛先生『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』
独占インタビュー「ラノベの素」。今回は2021年7月1日にスニーカー文庫より『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』第10巻が発売された枯野瑛先生です。シリーズ第1部にあたる『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』は2017年にTVアニメ化を果たし、クトリという妖精兵に憧れと羨望抱く次代の妖精兵たちにスポットをあてた第2部も、7月と8月の連続刊行によっていよいよ完結を迎えます。約7年を駆け抜けている本シリーズの振り返りから、今後の展望まで様々にお話をお聞きしました。
※シリーズ第1部、第2部のネタバレが含まれますのでご注意ください。
※フリーペーパー「ラノベNEWSオフライン2021年6月号」には本記事未掲載のインタビューも掲載されています。
【あらすじ】 浮遊大陸群を救う、最後の戦いが始まった。〈最後の獣〉の結界内に広がるのは、在りし日の地上を模した風景。散り散りになる妖精兵たち、ティアットの前にはエマと名乗る女性と、白いマントの少年が現れて――。 |
――本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介からお願いします。
枯野瑛です。かれこれ20年以上お話を作ったり書いたりしています。好きなものはおいしいもので、嫌いなものもおいしいものです。現在糖質制限中です(笑)。趣味はゲームで、特にリソース管理系のゲームが大好きですね。とはいえこの7年、時間を確保できずまったく遊べていません。そろそろゲームに没頭できる時間を作りたいなと思っていますし、最近だと『Factorio』のアップデート、『Dyson sphere program』を興味深くチェックしています。ただ、遊び始めたら間違いなく100時間単位の時間が飛ぶので、なかなか手を付けられない状況です……。リソース管理系のゲームは、終わりまでの過程をいかに自分好みに捻じ曲げるかという楽しみ方が醍醐味だと思っていて、そういった趣味が作品にもよく出ていると言われますね。
――非常にゲームがお好きなんですね(笑)。ゲーム以外にハマっていることなどはありますか。
ハマっているというわけではないですけど、運動は増えましたね。不健康が怖いというのと、私の趣味の多くが、本やゲーム、調べものといった頭を疲れさせちゃう類のものなんです。なので、頭を使わずに時間もそんなにかけなくてよく、かつ何かプラスになることをって考えた結果、身体を動かそうってなりました(笑)。もっぱら室内でできる筋トレやウォーキングです。ジムに行って本格的にやろうとすると、それこそ運動量を考えてしまったりと頭を使っちゃうだろうなって。趣味に頭を使って感覚で運動をする。全体的なバランスって大切です。
――ここ1年はコロナの流行など生活環境も大きく変わったと思います。執筆への影響などはありましたか。
そうですね。世の中の変化と比べると微々たるものではありますが、深夜のファミレスで原稿に取り組めなくなってしまったのは結構痛手でした。自宅でやるよりも原稿のペースには歴然とした差が出ますし、以前は8割近くファミレスで執筆していましたので……。
――ファミレスや喫茶店で執筆される作家さんは少なくないと聞きますが、原稿のペースにもしっかりと影響しているんですね。
もちろん個々人によって違いはあると思いますが、私の場合は内側に向けて掘り下げて物語を書いていく場合は大丈夫なのですが、周辺と関わっていく物語を書こうとすると自宅では詰まりがちなんです。書くシーンによって場所を変えながら書いていたんですけど、今はそれができない。外部の環境からちょっとした刺激や喧騒を求める感じではあるんですが、世の中と少しだけ切り離された感のある深夜のファミレスは、絶好の執筆スポットだったんですよね。
■あっという間かつ長かった『終末なにしてますか?』シリーズ
――ありがとうございます。そんな中、7月と8月の連続刊行によって『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』がいよいよ完結を迎えます。あらためて本シリーズを駆け抜けてきた7年を振り返っていただけますでしょうか。
あっという間かつ長かったです。大急ぎでやらなければならないことが常に目の前にあり続けたので、時間を感じている暇はほとんどありませんでした。一方で、合間合間で振り返るたび、こんなにも時間が経過しているのかと思ったりもしました。自分の目の前のことに関しては自分で見ているからわかるんですけど、自分が目を離している間に世の中の、周りの人間の動きをみると7年の長さを感じます。つまり、良い言い方をすると充実していたということなんですかね(笑)。
――完結を目前に控えて、今のお気持ちはいかがですか。
今、インタビューの収録時点では、まだ最終巻の原稿が書き終わっていないので、振り返るのは少し難しいです(笑)。ただ、作品のことについて語らせていただくと、第1部『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』をスタートさせた際は、このシリーズは続かないだろうという覚悟をしていました。当時約10年ぶりのライトノベル復帰作だったわけですが、流行りの要素や目立つ要素のあるタイプの作品でないことは自覚していました。シリーズとして続けていくための最低部数を超えるのは難しいだろうなとも。そのうえで、たまたま私の作品を手に取ってくれた方が、「この作品はすごくいい」と思ってくれる作品にしようと考えていました。打ち切られるなら打ち切られるで仕方がない。それでも、枯野瑛という作家は過去にこんな作品も書いていたんだと振り返ってもらえる作品にしようと。そういったコンセプトで『すかすか』を世の中に2冊まで出し、悲しい予想通りというか、結果は振るわず2巻で打ち切りになっちゃったんですよね。
――なるほど。しかしその状況は大きく一変することになりますよね。電子書籍での伸びは当時も大きな話題になりました。
そうなんです。打ち切りが決定した直後くらいに、電子書籍そのものへの話題が盛り上がりを見せ始めていました。そのタイミングに重なって、Amazonのライトノベルランキングではなく、Kindleランキングで一桁以内に何度も入るという驚くべき事態となり、その数ヶ月後に3巻検討のお話が浮上、最終的には5巻構成となりました。蛇足ではありますが、本作においては作品としてすごく作り込まれているという感想や評価をいただくことが多く、嬉しく聞いている一方、その理由は打ち切りや継続の判断が都度都度入ったことで、物語や構成の再構築を繰り返した結果でもあるんです。もちろん何を語るのかを変化させ続けながら、表現の幅も広げられるよう仕込んではいました。当時かけた手間がそのまま作品としての作り込みに繋がっているのは、副産物のひとつかもしれません(笑)。
――そんな『終末なにしてますか?』シリーズに掲げられたテーマ、そして第1部『すかすか』、第2部『すかもか』のシリーズとしての立ち位置についてお聞かせください。
両作ともテーマには「既に終わった物語の後ろに続く蛇足の物語」を据えています。『すかすか』ではヴィレムの戦いが背景として存在していて、いわば実在していない小説の後日談のようなものでした。ヴィレムの戦いの本筋を見えないままにすることで、物語全体に奥深さと言いますか、寂寥感を持たせたりという仕掛けではあったんです。「いかにしてヴィレムの物語が幕を閉じるのか」が物語の主眼になっていました。
一方で『すかもか』は、『すかすか』という既に実在する小説の後日談に近い体裁で始まりました。もともとのコンセプトとして「今あることに目を向けてもらう」ため、過去にあったことはぼんやりとした背景として機能してほしいという狙いが『すかすか』にはありました。『すかもか』ではその発想を逆転させて取り入れられないかと考えたんです。なので、『すかもか』では途中から主客が逆転するという形になっています。『すかすか』から見れば『すかもか』は後日談ですが、『すかもか』から見れば『すかすか』は前日譚です。ゆえに過去が見えない物語であった『すかすか』と対照的に、未来が見えない物語を『すかもか』としました。このふたつを交えることで、読者にはその時読んでいるシリーズこそが主軸なのだと思えるような作品にしたかったんです。
■シリーズ構成・脚本を務めた2017年のTVアニメ化を振り返る
――2017年には第1部『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』のTVアニメ化も行われました。
これは本当にありがたかったですね。小説だけではメディアの種類につきまとうイメージや表現の限界もあり、小説とは別の見せ方をみなさまにお届けできたのではないかと思います。私自身、物語の世界が広がりました。
※2017年にTVアニメ化も行われた『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』
――枯野先生はシリーズ構成と、一部脚本を担当されていましたよね。
当時は無我夢中でしたが、今振り返るととんでもない危険なことをしていたとあらためて思います(笑)。アニメ制作という職人が力を結集してプロの技術と経験を束ねている現場に、これまでアニメに関わった実績も経験もない人間を中核に招き入れるとか、冷静に考えるととんでもない話でしたよ。
――シリーズ構成に参画するにあたっては、どんな経緯があったのでしょうか。
当初、アニメ化のお話がきているので顔合わせをしましょうということで、アニメ関係者のみなさんとご挨拶をさせていただきました。私自身はネガティブなイメージではなく、餅は餅屋の気持ちで完全に別の方に委ねるつもりでいたんです。アニメという媒体で原作をおいしく料理してもらえたらそれでいいと。なので、軽い気持ちで「シリーズ構成の方は絶対に大変ですよね、ははは」みたいなお話をさせていただいたところで、「シリーズ構成、お願いします」と言われました。どうやら自分以外には共有されていたようで、顔合わせの場で決まるという(笑)。私としてはアニメとして満足度の高いものを作ってほしいと思っていたんですが、「そうではなく、この原作ならではと言えるものを作りたいんです。そのための最善手として原作者をシリーズ構成に招聘したいんです」と制作陣営の総意として言っていただきました。そこまでくると、自分もそのアニメをすごく見たくなりますし、見るためには自分が飛び込まなくちゃいけない。ネガティブではなくポジティブな理由しかない提案を受けた以上、これは乗るしかないと思いました(笑)。
――そんな一幕があったんですね(笑)。そうして実際に携わられたわけですが、思い出深いことや印象深かった出来事などはありましたか。
これは原作の話になるのですが、『すかすか』シリーズを書くにあたっては、台詞、心情、地の文、設定解説、これらの垣根をかなり緩めていたんです。どういうことかというと、地の文でも心情を語るし、登場人物の心の中の台詞で設定を語るし、それらと切り離されたナレーションがごくごく稀にしか入らない。これを他のメディアに落とし込もうとすると、どれを台詞として扱うのか非常に混乱するもので、だからこそアニメ化なんて有り得ないと思っていたんです。逆に、アニメ化を真面目に目指している作品ではできないであろう作風だったので、ライトノベルの中において作風の独自性で立ち位置を確保できるぞと。結局アニメへのコンバートは自分でやることになったんですけど、非常に頭を抱えました(笑)。でもそこはプロの方のお力も借りつつ、シーンの表現方法もたくさん勉強させていただきました。原作を忠実にアニメ化したという評価もたくさんいただいていますが、演出部分は総入れ替えしていますし、クトリの物語として再構成しているんです。それでも原作の物語をなぞることができたという事実は、両方の制作陣営にいた一人の人間なのに、いったいどんなミラクルが起きたんだろうと未だに首を傾げていますね(笑)。
――ご自身が脚本を担当された第1話、第11話、第12話についてはいかがでしたか。
1話目に関しては、お手本がないところにいきなり素人が現場に立って、という感じでしたね(笑)。それまでゲームのシナリオは手掛けていたことこそありましたけど、テンポにせよ優先するべき事柄にせよまるで違いました。さらに絵的な見せ場をいくつも確保しなくちゃいけません。絵と文章と音楽と、三位一体で世界を伝えなければいけないのだけど、いったいどうすればいいの?という(笑)。そういった環境下でお力を貸していただきながら、エピソードを結構詰めたり、台詞をできるだけ残したり、背景にも言及したりと、奮闘しました。11話と12話については、原作3巻のエンディングエピソードを、小説ではかなりふんわりとした表現で演出していたこともあり、具体的なイメージを出しづらかったんですよね。ある意味、そのシーンを映像化することがシリーズ構成を行う上で一番大変だったことかもしれませんね。
――TVアニメの放送を終えた後、反響はいかがでしたか。
本当にたくさんの反響をいただきましたし、今でもいただいています。「アニメ最高でした」と言っていただけることも非常に多く、本来原作者にこういったコメントが寄せられた際は、「アニメよかったですよね」って反応するところだと思うんです。ただ、幸いにして原作者兼シリーズ構成だったので、「ありがとうございます」と言えるのは素直に嬉しかったですね。一方でアニメから本作に触れた方はクトリに対する印象や想いが非常に強く、「原作でクトリの物語の続きが読めるわけではないんです、ごめんなさい」という思いもかなり強かったです。このあたりは嬉しくもありもどかしくもありという感じでしょうか。それでも、アニメ後にシリーズを一気に読むという世界観にのめり込むことができる嬉しい読み方をしてくださっている方も多いです。もうすぐ『すかもか』が完結するので、今こそクトリをはじめとした妖精兵たちの物語を、クトリの背中に憧れる少女たちの物語を、最後まで追いかけていただけたらと思いますね。
■クトリ・ノタ・セニオリスは最高に手のかかる可愛い我が子
――第1部はもちろん、第2部では妖精兵である少女たちの憧れの存在としてクトリは描かれています。枯野先生にとって彼女はどんな存在でしたか。
どんなとキャラクターかといいますと……、最高に手のかかる可愛い我が子、みたいな感じです。ライトノベルのヒロインというと「恋人にしたくなるような女の子」が定番ですが、クトリは恋愛感情を向ける先ではなく、「ひたむきで一生懸命で、つい応援したくなる子供」として置いています。良くも悪くも、純粋に美しい物語の中を生きた子でした。『すかすか』、そして『すかもか』自体は純粋に美しいだけの場所ではありません。彼女の存在は本当に奇跡的な特異点のようなものなんです。だからこそ、いまだにシリーズの象徴のような存在として愛されているように思いますね。
※クトリの存在は奇跡のような、特異点のようなものだったという
――第2部ではティアットをはじめ、クトリに憧れと羨望を向ける妖精兵もたくさん描かれています。彼女たちにとってクトリはどのような存在として映っているのでしょうか。
理想の大人だと思います。クトリだって15歳だったんですけどね。当時10歳だったティアットが見た15歳のクトリは、彼女の中で固定されたままなんです。5つ年上の背伸びをしても届かなかった完璧超人の背中が、15歳になった彼女の中にあり続けているんです。年齢だけ見れば追いついてこそいますが、5歳年上の彼女にはかなわないという想いを抱いてしまっている。目標だったものがコンプレックスにもなってしまうという、現代の10歳から15歳になった子たちも普通に持ち得る一般的な悩みとしても描かれていますね。
※『すかすか』から『すかもか』へ、クトリの背中を追いかける妖精兵たちが多く描かれる
――ティアットにとってクトリは眩しい存在でありながら、決して届かない遠い存在としても見ているということでしょうか。
根本的なお話として、純粋に美しい物語を生きたクトリに、そもそも実際の人生で追いつけるわけがないんです。追いつけないけど、追い続けた結果にできあがった自分自身こそ、自らの人生を歩んでいるということに気付く物語でもあります。少々先のネタバレも含みますが、ティアットの頑張っている姿は本人の中でこそ泥臭いんですけど、他人からみたら美しいんですよね。だから上の世代に憧れるという構図自体は、本人たちがどう思っていようとも連鎖するんです。
――なるほど。作中でも言及されていますが、ティアットの背中に憧れる妖精兵も多いですからね。
憧れを追いかける背中を見てきた子たちが、さらにその背を追いかけるようになるのは、道理なのかなと。『すかもか』の物語の構図として欠かせないもののひとつです。
■ヴィレムとフェオドールはヒロインである
――シリーズを振り返りつつ、ご自身でお気に入りのキャラクターを教えてください。
ネタとかではなく、「お気に入りヒロインは誰か」という話ですとヴィレムとフェオドールです。放っておくととんでもないことをやらかすこの2人を、どうにか自分のほうへ振り向かせてやるとがんばる女の子たちの話なので(笑)。恋愛ゲーム的に考えれば攻略対象は確実にこの2人です。そもそも論なんですが、この2人は主人公として感情移入しづらいはずなんです。過去が不透明だし、行動原理もいまいちよくわからない。ざっくりとした構造としては、この2人が不思議系とか闇を背負ってる系とかのヒロインで、そのヒロインを理解しようと近づいていく主人公ポジションに妖精兵たちがいるんですね。古めのアーキタイプで最近のヒロインムーブではありませんが、実際にヒロインっぽい動かし方もしています。主人公としてヒロインの扱いに困り果てている『異伝』のリーリァも可愛いですね(笑)。
※それぞれのシリーズにおいてヒロインだったというヴィレムとフェオドール
――逆に「お気に入りの主人公は誰か」という視点ですといかがでしょう。
それはもちろんティアットですね。本シリーズは「とっくに終わっていた男が~」とか、「終わりを受け容れていた少女たちが~」というキャッチコピーで語られる中、その世界でこの子だけが恥ずかし気もなく未来を夢見て、しかもガンガン成長するんですよ。ある意味、世界の絶対のルールに反逆する者なんです。主人公特権とも言える、最弱にして最強のジョーカーでもありました。彼女がそこにいるだけでシーンが前向きになるので、みんなが後ろを向いているこの世界において、書いている側としても随分救われました。ナイグラートも存在としては近いのですが、彼女は未来というより現在のホスピタリティに全振りなお姉さんなので(笑)。
※未来を夢見て成長していく妖精兵・ティアット
――ヒロインと表現をされましたが、より具体的にヴィレムとフェオドールはどんなキャラクターだったのか教えてください。
両方とも現実的な理想主義者です。このフレーズはコミックス『スプリガン』の最終巻に矛盾した思想だとして描かれていたりしたものなんですが、若かりし自分が当時そのフレーズを見た際に、目的としての理想を持った上で現実を見て動くのは特別なやり方じゃないのでは、と思ってしまったんですね。このもやもやを何かに託したいという思いがずっとあって、奇しくも物語を書いて世の出せるようになったことで、この思想の影響を受けた主人公を描くことが多くなりました。そのうえで、一度完全に失敗したことがあるものとしてヴィレムの存在があり、これから失敗することが見えている上で立ち止まれない者としてフェオドールの存在があるんです。わかりやすい勝者にはどちらもなれず、だからこそ力強い人生を駆け抜けた存在だと思いますね。
――そんなヴィレムとフェオドールという存在を経て、黒瑪瑙(ブラックアゲート)がいるのでしょうか。
黒瑪瑙(ブラックアゲート)は、傍観者として存在しています。そしてこの黒瑪瑙(ブラックアゲート)こそ、ヴィレムとフェオドールの二人の物語をどちらも傍観した唯一の存在なんです。お気付きの方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、『すかもか』第6巻の章タイトルにある第1章「age of scarlet scars」、そして第3章「scam of cowards」。これ、英題をもじるとそれぞれ『すかすか』と『すかもか』になるんです。つまり第1章で『すかすか』を、第3章で『すかもか』を俯瞰したよという読み方もできるんです。私の自己満足でしかない仕掛けではありますが、フェオドールが『すかすか』の物語を黒瑪瑙(ブラックアゲート)から聞いた章、そしてフェオドールの物語が幕を閉じた章となっていたわけです。他にも、シェイクスピアからもじったりとか、章タイトルには色々仕込んであります。興味がある方は細かくチェックしていただくと面白いかもしれません。
――ありがとうございます。キャラクターについてもうひとつだけお聞かせください。『すかもか』第2巻に登場したリンゴ、そしてマシュマロ(リィエル)についてなのですが、幼い黄金妖精(レプラカーン)にはどんなことを託されていたのでしょうか。
なるほど、そこですか。まず前提として、妖精とはぽんぽん生まれてぽんぽん消滅していく存在なんです。ただ序盤のフェオドールはそれを目撃はしていないんですよ。そして読者も第2巻を迎えるまではその事実を体験していなかったわけです。そのうえで、妖精たちの命の物語を紡ごうとすると、どうしても現実を見ていない、単純な理想のお話になってしまいます。だからこそ、妖精はどこかのタイミングで生まれ、そして簡単にいなくなってしまうものだよということを、フェオドールと共に体験してもらわなくてはいけなかったという理由がひとつありました。そこからちゃんと生きていく妖精もいるし、その先にはティアットたち妖精兵がいるんだよということも並行して見せたかったんです。リンゴとリィエルにはそんな思いを託しました。その中でリィエルを通して、幼い妖精兵は何を考えて存在し、生きているのかを読者に伝えたかったんです。
※リンゴとマシュマロの存在は、読者にも大きな感情の揺れをもたらしたことは間違いない
――リンゴの行動とマシュマロ(リィエル)の「おとーさん」という言葉は、フェオドールはもちろん、読者にも大きな衝撃を与えたと思っています。かつてヴィレムを「おとーさん」と呼んだ妖精兵たち、そしてフェオドールを「おとーさん」と呼んだ幼い妖精。第1部と第2部を股に掛けた印象深いシーンでもありました。
ありがとうございます。シリーズ的にこの物語は恋愛感情よりも家族愛が強いんですよね。特に疑似的な父親としての在り方をヴィレムが最初に体現しました。その後に本人は嫌だと言っていたにも関わらず、フェオドールは「おとーさん」と呼ばれた瞬間、その役割をすべて引き継いでしまった。その重さに耐えられず、フェオドールは逃げ出してしまうのですが。どうあれ、フェオドールは最後まで「おとーさん」と呼ばれてしまった自分を、リンゴとリィエルの存在を切り捨てることができなかった。彼が背負ったものの重みが、少しでも読んだ方に伝わっていれば、書いた側としては冥利に尽きるというものです。
■ue先生の存在はこのシリーズに欠かすことはできなかった
――本作のイラストはue先生が担当されました。物語と共に非常に象徴的なイラストを描かれ続けています。
とても助かりました。いやもう、ueさんがいなければこのシリーズはなかったです。やわらかくて清潔なタッチで、この世界に美しい色をのせていただきました。本当に素晴らしくて、この場も借りてあらためて感謝を。ふわふわした女の子たちのふわふわ感が特に絶品なんですよね。ティアットとかネフレンとか。これは全世界に共感してもらえると思います!
※イラストレーター・ue先生の存在なくしてこの作品はなかったという枯野先生
――表紙の泣き顔も話題になりましたし、いろんなキャラクターが登場しました。
おっしゃる通り、毎回キャラクターが泣いているということでも話題になりました。登場させるキャラクターについては常に相談していました。8巻あたりからは悲し気な表情をしつつも、泣いてなかったりするんですよね。これはシリーズ当初の頃から共有していたことでもあって、物語が終わりに近づくにつれ、表情は前に進ませようと。9巻の表紙は本当に大好きです。ここまで泣き顔が続いていたんですけど、ただ微笑んでいるだけなのに、もたらすインパクトが凄まじい。ueさんが完全にこちらの欲しがっていたものを汲んでくださったので、万歳三唱しながら表紙を見ていましたね(笑)。
※印象的だったという第9巻の表紙に描かれた微笑むティアット
――また本作は挿絵を扉絵として展開していました。
このあたりはシリーズ立ち上げ時にいろいろと検討しました。扉絵を選択したのは、作中のシーンをビジュアル化するのではなく、イメージシーンを描くことができるという点が大きな要因のひとつです。口絵にも同様の狙いがあり、自己紹介をイメージした口絵があるかと思いますが、その子に興味を持ってもらいたいという暗示と、読み終えた後にそのキャラクターを再確認してほしいという暗示の2点が込められています。もともとキャラクターに対する濃度が濃い作品ではないからこそ、補える要素として採用しました。
※扉絵に込められたメッセージ性も作品に大きな影響を与えた
――今後の目標や野望について教えてください。
目標は次の、というか別の話を書き上げることでしょうか。7年間『すかすか』以外のお話をほとんど書かなかったので、すっかり自信がなくなっています。この7年は『すかすか』専用の文体を尖らせてきましたし、小説以外の媒体で何かを表現するのもだいぶ鈍ってしまっているので、リハビリじゃないですけどいろいろやりたいですね。完結までまだひと月ありますが、この世界の物語はひとまずの終わりを迎えることになります。ただ、エピソード自体は山のようにありますので、また違った形でお見せできたらなとは思っています。
――あらためて7月、8月と連続刊行される本作。どんな物語が描かれることになるのでしょうか。
一言で申し上げて、集大成です。そう答えるべきなのだろうし、そう答えなくちゃいけない作品にしたぞという意気込みも含んでいます。第1部、第2部、異伝と続いてきたシリーズです。新たなエピソードやキャラクターも出てきます。でもそのほぼすべてが、どこかで見たことがあるはずのものです。そういった点にも注目しながら、ぜひ最後まで読んでもらいたいと思います。
――それでは最後にファンのみなさんに向けてメッセージをお願いします。
ここまで支えてくださった皆さまのおかげで、ついにここまで辿り着くことができました、ありがとうございます! いえ、まだ全部は書きあがっていないので辿り着いたというのはちょっと嘘になりますが、支えに対する感謝は本物です! 来月には11巻も連続刊行となります。最終巻を読んだ後にもう一度読み直していただくことで、これまでに見逃していた発見などがあるかもしれません。第1部しか読んでいなかった方はこの機会に、シリーズを途中まで読んでいたという方は、あらためてもう一度手に取っていただいて。『すかすか』も『すかもか』も『リーリァ』も、シリーズのどこから読み始めても形になるようできているので、一区切りがつくこのタイミングで、ぜひ大きな物語としてまとまる本シリーズに触れていただければ幸いです。
――本日はありがとうございました。
<了>
完結に向けてのカウントダウンもスタートした『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』第10巻が発売となった枯野瑛先生にお話をうかがいました。妖精兵たちはどんな生き方をして、どんな最期を迎えるのか。それとも、少しずつ変化してきた表紙のように、彼女たちが心から笑える日常がやってくるのか。7月と8月の連続刊行で本編が堂々完結を迎える妖精兵たちの物語『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』は必読です!
<取材・文:ラノベニュースオンライン編集長・鈴木>
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